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魔女狩りの(情報源)について考えてみる


2011年9月5日
 
 ネット上では、曖昧な情報が非常に多い。
最近の自分は、この情報は、どこで仕入れた情報なのかを明かすことは、重要だと思うようになった。 
 
 たとえば、曖昧な情報で「聞きかじりのまるでうろ覚え」のような書き方だと (ネット上の噂話)で片づけられたり、個人の聞きかじりで片づけられてしまえば非常に悔しいからである。
 
 では、まず魔女狩りについて考えてみる。
魔女狩りは、中世ヨーロッパの時代に行われていたと自分は記憶している。
 また、500年以上続いていたと信じていた。
ところが、サイトによっては、300年程と解説されていた場所もあった。
 そこで、魔女狩りについて解説されているネット上のHPやブログについて考えてみたいと思う。
 
 魔女狩りが行われた期間
このおぞましい恐怖の嵐は、約500年もの間、中世ヨーロッパの国々に吹き荒れた。
 
↑では、こちらのサイトの解説について考える。
例えば、14世紀初めに起きた大飢饉は、全農村の3分の1が廃村となるほどの壮絶なものであった。すべての農民は栄養不良から死んだり、物乞いとなって各地をさまよったりした。
 
↑14世紀「1301年から1400年」初めに大飢饉により全農村の3分の1が廃村となるなど書かれている。
 では、魔女狩りは、西暦何年から行われたのか?
 
魔女裁判がいつ頃から始まったのかは誰も知らない。
と解説されておりこちらのサイトでは、魔女裁判がいつから始まったのか知ることが出来なかったけど、恐らく魔女狩りがいつから行われたのか正確に記録されている資料は見つかっていないのかもしれない?
 
 
■では、次に魔女狩り及び魔女裁判で処刑された犠牲者の人数について、考えてみる。
 これも800万と解説するサイトもあれば、100万だったり、40000から60000万人だったり、サイトによって 「ばらつき」があるので、一体皆は、どこから仕入れた情報に基づいて、解説しているのか?素朴な疑問を感じた。
 
魔女裁判によって、8百万という無実な人々が凄惨な拷問の末、魔女と断定され、残酷な殺され方をしたのである。
 
 
中世末から近世にかけてのヨーロッパを狂乱の坩堝と化した魔女狩り。5万人が犠牲になったこの現象はなぜ起きたのか。そして、魔女とは何だったのか。魔女とは誰か、なぜ彼らは迫害されたのか。当時の文化・社会に根ざした研究から、歴史の闇を照らし出す。
 
↑■? 図説 魔女狩り (ふくろうの本/世界の歴史)という単行本によれば、魔女狩りの犠牲者は約5万人らしい?
 
 では、次に下記のサイトの魔女狩りの解説について個人的に考えてみる。
魔女狩りと異端審問の歴史
 
約300年間も吹き荒れた
魔女狩りの狂気
 
知識階級によって
作りだされた魔女
 
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●だが、魔女狩りを扇動したのは無学な民衆ではなかった。こともあろうに一流の知識人、学識者がこぞって魔女の存在を信じ、そしてこの世の魔女を最後のひとりまで焼き尽くそうと熱情をたぎらせていたのである。魔術や妖術の存在への信仰は古今東西に見られる。しかし、ヨーロッパの知識人たちが信じた魔女のイメージはあまりにも特殊なものであった。それは、悪魔への服従、キリスト教の否定ということを前提にしているのだ。

●たとえば「魔女狩り」のマニュアルとして、絶対的な権威をもっていた『魔女の鉄槌』という文書には、明確に次のような定義が見られる。
「魔女は悪魔と契約を結び、その代償として悪魔の魔力を与えられ、超自然的なこと(嵐を呼びよせる、雨を降らせる、畑の作物を枯らす、呪いをかけるなど)ができる者」
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魔女狩りが起きるまで、比較的平穏な魔女の時代は、1300年ごろまで続いていた。
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1300年、つまり14世紀に入るや、魔女は即、死刑の有無をいわせぬ判決が下るようになる。魔女に対する厳しい批判は、16世紀の神学者ジョージ・ギフォードの次の言葉に集約されている。
「魔女は死刑にすべきである。殺人を犯したからではなく、悪魔と結託したがゆえに」
一体、いつからこのような変化が訪れたのだろうか。それを知るためには、「異端審問制度」の成立という魔女狩りの前史から語らねばならない。 
 
「異端審問制度」による異端派迫害から
「魔女狩り」への移行
 
1198年に即位した教皇インノケンティウス3世は、この「カタリ派」の徹底的潰滅を命じた。カタリ派遺滅の命を受けたのが第4回十字軍に参加した騎士たちであったため、この討伐軍は「アルビジョワ十字軍」とよばれた。彼らは約40年にもわたって討伐を続け、南仏ラングドック地方の大勢の市民を殺した。カタリ派だけでなく南フランスの大半の人々も犠牲となり、アルビジョワ十字軍は老若男女の区別なく100万人もの一般市民を虐殺したのである。
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1229年に即位した教皇グレゴリウス9世は、異端者を恒久的に撲滅しつづける組織の必要性を痛感し、1233年、異端派迫害のプロ組織「異端審問官」を制度化した。これは、異端の疑いのある人間を裁判にかけ、ときには軍事的な力をもって制圧するという強硬な制度である。
更に歴代教皇の中でも最も狂気じみていたヨハネス22世は、1318年、異端者と魔女を同一視し、全ての宗派の異端審問官に対して「いつでも、どこでも裁判を行ない、判決する権利を与える」と言明した。更にあるゆる魔女は異端者として処分し、財産を没収するよう命じた。
 
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『魔女の鉄槌』の刊行が
魔女狩りに拍車をかけた
 
 
 
●15世紀に入ると、魔女狩りは一気にその勢いを強める。その決定打になったのが『魔女の鉄槌』の刊行である。これは、ドミニコ会の異端審問官、ヤーコプ・シュプレンゲルとハインリヒ・インスティトリス(別名クレーマー)の2人が、時の教皇インノケンティウス8世の認可を得て、1485年に出版した魔女裁判のマニュアルである。
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単なる噂や密告、自白が
証拠とされた魔女裁判
●15世紀に入ると、魔女狩りは一気にその勢いを強める。その決定打になったのが『魔女の鉄槌』の刊行である。これは、ドミニコ会の異端審問官、ヤーコプ・シュプレンゲルとハインリヒ・インスティトリス(別名クレーマー)の2人が、時の教皇インノケンティウス8世の認可を得て、1485年に出版した魔女裁判のマニュアルである。
こうしたことが、日常茶飯事に行なわれていたのだ。そして、魔女と決まった者は例外なく処刑された。『魔女の鉄槌』には、たとえ魔女が罪を認めて悔悟しても、処刑すべしと書かれている。しかもその多くは生きながらの火あぶりという、これ以上ないほどの残酷な扱いを受けたのであった。
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悪夢に終止符を打った
アメリカの「セイラムの魔女裁判」
●魔女の忌まわしい歴史は、17世紀末になってようやくその幕を閉じようとしていた。人々の間に少しずつであったが、理性がよみがえり、魔女に対する妄想から脱却しようとしていたのである。しかし、嵐は過ぎ去ったわけではなく、暗黒の歴史の上でその最後の炎が燃え上がったのは、皮肉なことに自由の国アメリカにおいてであった。
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1692年のある日、現在のマサチューセッツ州のセイラムで、9歳と11歳の2人の少女が神経症的な症状を示した。そのきっかけは実にたわいのない占い遊びだったという。彼らの家で使われていた黒人奴隷の女性が、寝物語に聞かせたブードゥー教の占いや魔法の世界に魅了されていた子供たちは、コックリさんに似た占いを試したのである。

感受性の強い子供が占いゲームに深入りした場合、まれに精神が不安定になることは珍しくない。少女たちの目はそのうちに虚ろになり、奇妙な振る舞いをするようになった。驚いた娘の父サミュエル・パリスは、子供たちの異変は魔女の呪いのせいだと信じた。やがて、わずか9歳の少女の証言に基づいて魔女狩りが始められ、ヨーロッパと同じような残酷な尋問が展開されることとなったのである。

●知事であり名士であったコットン・メイザーの強力な後押しも受けて、魔女狩りは次々に展開される。共犯者を語らせるというヨーロッパ式のやり方も導入されたため、3人の被告から始まった魔女裁判は、わずか半年ほどの間に200名の容疑者を数えるまでになった。そして、そのうち30名が死刑を宣告された。19名が絞首刑となり、1名が圧死、2名が獄死した。逃げたのが1名で、妊娠のため死刑延期になって助かったのが2名。そして死刑宣告を受けたものの、後に自白して助かったのが5名だった。
 
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こうして、30万人とも300万人ともいわれる魔女狩りの犠牲者が、やっとその数を増やすことがなくなったとき、教会の権威が失墜する時代がやってきたのであった。ちなみに、異端裁判所は1903年まで設立されていた。
 
(引用終わり)
 
■↑魔女狩りが始まる前にも約100万人の一般人が虐殺されたらしいけど、サイトによっては、魔女と定義された女性以外の一般人も含めて800万人も虐殺されたと解説したのかもしれない?
 
■では、次に目で見る世界史 TOPというサイトの解説について考えてみる。 
()内は、筆者「sinyudoutouge」の語り。
 
 
    <13世紀から17世紀にかけてのヨーロッパで、数十万あるいは数百万の女性たち(一部は男性)が、無実の罪を着せられ、残虐な拷問のあげくに焼き殺されました。「魔女」という烙印を押されたばかりに。 
 
 
(13世紀は、「1201年から1300年」で17世紀は、「1601年から1700年」ということで、 魔女狩りと異端審問の歴史と言うサイトでは、1300年、つまり14世紀に入るや、魔女は即、死刑の有無をいわせぬ判決が下るようになる。 と解説されていることから1300年ごろ始まったと考えられる。 最後の方にヨーロッパ諸国の「最後の魔女裁判記録」が解説されている。
 1717年 イギリス
1722年 スコットランド
1745年 フランス
1775年 ドイツ
1781年 スペイン
1782年 スイス
1791年 イタリア
1793年 ポーランド  よく分からなくなって来たぞ! 頭が混乱してきた! 1300年から300年後は、1600年であり、1793年にポーランドで魔女狩りがあったとしたら、魔女狩りの歴史は、300年というのはおかしい。 ということで、やはり魔女狩りは約500年続いたと言うのは、間違いなさそうである。 この記事を読んでいる途中で気付いたのだが、目で見る世界史 TOPと言うサイトは、魔女狩りについて解説されている様々なサイトを紹介している。 この記事を書いている途中で疲れて来た。  )
 
魔女狩りという名の歴史的な集団ヒステリー
 
↑■こちらのサイトでは、15世紀から17世紀のヨーロッパを荒れ狂った魔女狩り と解説されている。
参考文献も紹介されており
 
この2冊の文献を参考にしているらしい。 しかし、ひとつ言えることは、魔女狩りを解説しているサイトは、魔女狩りが行われた期間や犠牲者の数にばらつきがあって、頭が混乱してきた。
 
サイトによっては、15世紀(1401年から1500年)から始まったと言う風に解説していても千二百何年から、なんらかの殺戮が行われていたような解説をしていたりもする。
2.歴史から見た中世魔女裁判の考察
■では、こちらのサイトの解説について考えてみる。
 
話は12世紀に逆上る。
 かつて12世紀から13世紀にかけてヨーロッパに「テンプル騎士団」という結社があった。聖地への巡礼者を保護することを誓約した戦士達の結社であり、ソロモン神殿(テンプル)のあった砦の近くに本部を構えたのでこの名がついた。戦う修道僧たちの軍旗は、黒と白(白はキリスト者への友愛を、黒はその敵に対する捧猛さをあらわしていた)であった。彼らは、勇気と献身で知られ、みるまに無視できない勢力になった。
 1128年のトロワ会議の直後にフランス国王が土地を「騎士団」に寄進したのをかわきりに世俗的発展が始まり、たちまち西ヨーロッパ中に黒と白の旗がひるがえった。そして「テンプル修道院」は、安全の模範とみなされ公の通貨の保管所として使われ始め、パリの「 テンプル騎士団本部」はヨーロッパの金融の中心となっていった。パリ・テンプルの会計局長は、王室の全収入の受取人兼管理人として任命された。 
 しかしこの「テンプル」は、壊滅させられていくのである。それに際して、いかなる「悪魔祓い」が出現したのか見てみよう。
 
(↑12世紀と言えば1101年から1200年 個人的には、このサイトでいつから魔女狩りが行われたのかと言う解説を探すことが出来なかった。 今自分が疲れていて見落としているだけかもしれないが。)
 
ちなみに魔女狩りのエピローグは、1692年、アメリカのマサチューセッツにおける時代遅れの魔女裁判とされている。魔女狩りは、封建社会という抑圧された状況で、ある目的を持つ権力が存在し、その権力が生み出したステレオタイプにより作り上げられた人間が、社会の最下層部の人を苦しめ虐殺する行為であった―と、私は個人的に解釈している。しかし多くの学者が指摘するように、「魔女」のレッテルは他のレッテル(ユダヤ人、非国民、共産主義者等々)に変化して弱い人々に貼られ、かつて魔女に仕立てたように犯罪者として社会的な恪印を押してきた。昨年の日本人のイラク人質事件でも、首相や政府側の「自己責任発言」によって、人質になった人々やその家族に大して、マスコミや国民の批難の声が一気に広がった。心理学の歴史的事実は繰り返し、現代の中にも形こそ違うがそれが様々な場面で再現されているのである。
 
(■自分が文章を読む力が弱いのももちろんあるだろうけど、このサイトでは、はっきりと魔女狩りが何年に亘って続けられていたのか分からなかった。  もちろん魔女狩りは、現代でも形こそ違うが様々な場面で再現されており、 児童ポルノ禁止法等で、虐待でもない18歳未満本人の意思による着エロやヌードモデルになる権利を迫害するのも、魔女狩りと同類である。)
 
魔女狩りと集団ヒステリー
西暦1500年頃にヨーロッパ各地で起き始めた「魔女狩り」人類の心がまだ未熟な時代におこった、「集団ヒステリー」を代表とする行為であり、18世紀に至るまで、4万人が処刑されている。
処刑された人は、女性だけでなく男性も含まれており、女性を狙うと言うことではなくその狙いは、天災、政治、経済などに対する庶民の不安や不満の解消のためのスケープゴートであったと解析されている。
ここでは、多数の時空で近似した傾向が見られる「集団ヒステリー」に関しレポートする。
 
集団的なヒステリー効果による殺戮は、太古の時代に人類が集団生活をすることで始まり、西暦1900年代で収束し始める。
 
(曖昧であり、どこで仕入れた情報なのか。 情報の入手先が書かれていない。 四万人では済んでいないはずだ。  インターネットは、便利だが 曖昧な情報も非常に多く、情報の仕入れ先「どこのサイトで知った情報なのか? 何という文献で得た情報なのか?」を明かすことは重要だと思う。)
 
魔女鉄槌と言う魔女狩りマニュアルが出版されたのは、1486年ということで間違いなさそうである。
 
15世紀から始まったと言う風に解説しているサイトは、魔女への鉄槌が1486年に出版されたから、15世紀からと解説しているのかもしれない?
 
 なんだか魔女狩りは、いつから始まったのか? サイトによって解説の仕方にばらつきがあり訳が分からなくなって来た。
 
 確かに魔女への鉄槌が出版されたのは、1486年ということで間違いないのだろうけど、魔女狩りか魔女狩りでないにしろ異端者と決めつけられた人が正義の名の下に処刑されたのは、12世紀からあったのは、間違いないのだろう。
 
 本当に、ネットでは、情報が多すぎてどれを信用したらいいのか迷ってきた。
では、ネット上の情報源は、何を信用したらいいのだろうか?
 
 単に、人の人気だけで、情報を信用するのは、短絡的過ぎる。
 
一番確かな証拠は、タイムマシンでタイムスリップして、この目で中世ヨーロッパの時代を確認することだが、タイムマシンなんて漫画、アニメ、映画の世界だけの話であり、現実世界には、存在しない。
 魔女狩りについて一番信用できる情報は、当時の人が、後世に伝えるために書いた書物が一番信用出来る。
 ↑しかし、自分の英語力は、中学生にも劣る。
 
だから、当時の人が書いた記録を参考に和訳した書物が一番信用出来ると思う。
 
 今のところ
 

魔女狩りと異端審問の歴史
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西洋の時代が本格的に歴史の主要舞台に登場し始めたのは、18世紀末あたりからといえるのだ。このような時代背景を頭に入れておけば、次の章から具体的に説明する「魔女狩り」という恐怖時代が、ヨーロッパにおいて約300年間も続いていたという、 ...
 
■個人的には、こちらのサイトがよく調べられて参考になると考えている。
 異端者と決めつけられた人を殺戮する歴史は、およそ500年続いたと考えている。